公務員試験 H28年 国家一般職(行政) No.52解説

 問 題     

国際紛争の歴史に関する次の記述のうち,妥当なのはどれか。

1.ヨーロッパでは 19 世紀を通じて,「ヨーロッパ協調」と呼ばれた寡頭的な国際システムが,大国間の戦争をおおむね防いでいた。しかしドイツ統一後,大国間の協調を支えていた力関係のバランスは崩れ,特に宰相ビスマルク失脚後は,ドイツを中心とした同盟勢力と,それを封じ込める同盟勢力とにヨーロッパは分化した。

2.第二次世界大戦時の連合側諸国は,ソヴィエト社会主義共和国連邦が東ヨーロッパ諸国を占領したことに,米国を中心とする勢力が対抗するようになったことから,相互に敵対するようになった。「ベルリン危機」の引き金となった「ベルリンの壁」の設置を受けて,チャーチル元英国首相が「鉄のカーテン」演説を行ったことで,冷戦の勃発は決定的となった。

3.第一次世界大戦の戦後処理に不満を抱いたドイツ人に支持されたナチス党のヒトラーは,政権を掌握すると,独裁体制を固めると同時に,ヴェルサイユ体制の打破を唱えて軍拡を進め,対外的拡張政策を採った。ドイツが,日独伊三国軍事同盟や独ソ不可侵条約を結んだ上で,一方的に英・仏に宣戦布告を行って攻め込んだことにより,ヨーロッパは再び世界戦争の惨禍に陥ることになった。

4.フランス革命が勃発すると,革命思想の広がりを恐れた周辺国は,介入して事態の収拾を図ろうとした。しかしナポレオンが軍事的勝利を収め続け,フランスはむしろ勢力を拡大させた。周辺国はフランス包囲網を形成して抑え込み,かろうじてナポレオンを駆逐することに成功した。その後1815 年にウィーン会議が開催されて,プロイセンのメッテルニヒや英国のカースルレーが活躍し,フランスの占領統治体制が話し合われた。

5.宗教改革の後にヨーロッパ大陸では長く宗派対立の時代が続き,凄惨な虐殺事件も相次いだ。しかし三十年戦争の基本的な国際政治上の構図は,神聖ローマ帝国に挑戦したフランスとスペインの連合による覇権をめぐる戦いであった。そのためウェストファリア講和条約は,神聖ローマ帝国とフランス及びスペインの間の講和条約から構成され,フランスとスペインの覇権が確立された。

 

 

 

 

 

正解 (1)

 解 説     

選択肢 1 は妥当です。
1814-15 年のウィーン会議以降、大国の勢力均衡が図られていたが、1848 年革命を経て、クリミア戦争でウィーン体制は崩壊、さらに 1871 年ドイツ統一後、大国の力関係のバランスが崩れました。

選択肢 2 ですが
チャーチル元英国首相は、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンが降ろされた」と演説しました。この鉄のカーテンは、ヨーロッパを縦に2分するものですが、ベルリンの壁のような物理的実体はありません。あくまでも比喩です。また、鉄のカーテン演説は、ベルリンの壁設置を受けて行われたわけではありません。選択肢 2 は誤りです。

選択肢 3 ですが
前半部分は妥当です。第一次世界大戦敗戦国ドイツは、国際連盟を脱退し再軍備を進めます。この動きに対し、再軍備を反対し続けていたフランスは、ソ連と仏ソ相互援助条約 を結び、ドイツ挟撃を意図します。フランス・ソ連の協力に危機感を抱いたイギリスがドイツと手を組むという流れとなります。後半部分ですが、「ドイツが一方的に・・・英・仏に宣戦布告を行って攻め込んだ」わけではありません。ドイツがポーランドにまず侵攻し、それに呼応する形で英・仏が宣戦布告を行い、第二次世界大戦が勃発しました。選択肢 3 は誤りです。

選択肢 4 ですが
オーストリアの首都ウィーンで、オーストリア外相のメッテルニヒが議長として、ウィーン会議が開催されました。「プロイセンのメッテルニヒ」ではありません。ウィーン会議では、フランスのタレーランが主張した「正統主義」が基本原則となりました。正統主義は、「革命前の、元に戻ろう」という、従来の君主制に立脚した考え方です。自由主義・国民主義に対しては抑圧的です。(H27no51)。選択肢 4 は誤りです。

選択肢 5 ですが
三十年戦争は、当初は旧教徒と新教徒との対立軸でしたが、途中からは、スペイン=オーストリアのハプスブルク家と、フランスのブルボン家という対立軸へと移っていきました。「神聖ローマ帝国に挑戦したフランスとスペインの連合」ではありません。選択肢 5 は誤りです。

以上より、正解は 1 です。

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