問 題
中国の歴史に関する記述として最も妥当なのはどれか。
1.朱元璋は,「滅満興漢」を標語に漢人王朝の復活を目指し,明を建国した。また,科挙を創設し,行政機関を皇帝直属とするなど権力の強化を図った。
2.ロシアのイヴァン4 世による侵攻や豊臣秀吉による朝鮮出兵は「北虜南倭」と呼ばれ,これにより明は衰退した。李自成は反乱軍を率いて明を滅ぼし,清を建国した。
3.清は,満州族の習俗である辮べん髪ぱつを強制し,禁書や文字の獄によって思想統制を行う一方で,中央の重要官職には満州人と漢人を同数配置するなど,漢人の懐柔に努めた。
4.乾隆帝が海禁政策を解除してヨーロッパとの貿易港の制限を撤廃したことにより,大量のアヘンや茶が中国に流入したため,清はアヘンの取締りを行った。
5.清では,日本の明治維新に倣って政治の近代化を図る洋務運動が進められたが,日清戦争を契機として,変法運動と呼ばれる排外運動が義和団によって起こされた。
解 説
選択肢 1 ですが、「滅満興漢」は、清朝末期に唱えられた標語です。また、科挙は隋の時代から行われている公務員採用試験制度です。よって、選択肢 1 は誤りです。 ちなみに、朱元璋→明の建国は OK です。
選択肢 2 ですが、 「北虜南倭」は、北方からのモンゴル系遊牧民と、南方海域での海賊(倭寇)の活動のことです。また、李自成は、明を滅ぼしたのですが、その後清により滅ぼされます。清を建国したわけではありません。よって、選択肢 2 は誤りです。
選択肢 3 は、妥当な記述です。
選択肢 4 ですが、乾隆帝は中華思想に基づく朝貢貿易の立場を強め、外国貿易は広州一港での公行(貿易が許された商人)による貿易に限定しました。制限を「撤廃」ではありません。よって、選択肢 4 は誤りです。
選択肢 5 ですが、「変法運動」は、日清戦争以降、中国分割の進行を受けて危機感を抱いた改革派官僚による、立憲君主政の導入などの抜本的な体制返還を目指した運動です。排外運動ではありません。また、義和団によって起こされたわけでもありません。よって、選択肢 5 は誤りです。
以上より、正解は 3 です。
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