問 題
次は、貧困等に対する我が国の施策の歴史についての記述であるが、A~Dに当てはまるものの組合せとして最も妥当なのはどれか。
江戸時代、天明の飢饉によって江戸には周辺諸国から離農した貧窮農民が多数流れ込み、こうした人々は無宿人と呼ばれた。松平定信による寛政の改革では、無宿人対策が大きな柱の一つとなり,無宿人の更生と社会復帰のために A が創設された。
明治期になると、明治政府は、幕府や各藩で行われていた封建的な貧民救済策を廃止し、その代わりに政府による公的救済として、1874 (明治7) 年に B を設けたが、共同体や家族による共助を基本とし、共助の対象から漏れ、かつ自助が困難な障害者や高齢者といった「無告の救民」に限定して救済した。その結果、救済者数は封建的な貧民救済策の頃の数と比べても、極端に少なかった。
大正期には、地域福祉の先駆的取組として、大阪府において C 委員制度が導入された。これは、小学校区を基準に地域を分け C 事務所を設置し、家庭訪問などで把握した貧困世帯の状況をカード台帳に記載し、行政と連携して相談・援助を行うものであった。
1920 年代に入ると長期にわたる不況が続き、賃金水準の低下や失業者の増大など、深刻な社会不安が生じた。そういった状況の中で、新救貧法案が検討され 1929 (昭和4) 年に D が成立した。D は、公的扶助法であり、貧困者救済を国家の義務と認めた。
解 説
A ですが
無宿人対策なので「石川島人足寄場(にんそくよせば)」です。小石川療養所は、目安箱の投書により作られた、享保の改革における施療施設です。寛政の改革ではないし、無宿人対策でもありません。
B ですが
1874 年、「無告の救民」が対象とあるので「恤救(じゅっきゅう)規則」です。「社会救済に関する覚書」は、1945 年敗戦後、GHQ により発行されたものです。一般的には公的扶助4原則と呼ばれます。これをもとにまず旧生活保護法が作られます。
C ですが
大正期の大阪の取組は「方面委員制度」です。現在の「民生委員」制度の発祥です。
D ですが
恤救規則に代わり 1929 年公布されるのが「救護法」です。ちなみに財政難から、施行は 1932 年です。
以上より、正解は 1 です。
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